ジーコ(Zico)こと、アルトゥール・アントゥネス・コインブラ(ポルトガル語: Arthur Antunes Coimbra、ポルトガル語発音: [aʁˈtuʁ ɐ̃ˈtũnis koˈĩbɾɐ]、1953年3月3日 - )は、ブラジル出身の元サッカー選手、現サッカー指導者。2018年7月からJリーグ・鹿島アントラーズのコーチ兼テクニカルディレクターを務める。 私は彼から非常識と思われてしまったでしょうか? 脱... 佐藤涼平言い方悪いけど今更流行りだしたって感じ話題になった?って感じ当時の事おすすめとか出てきて泣きそうになる折角気持ちが収まって来たのに。私は野球が凄い好きで花巻東を応援してました。 JavaScriptが無効です。ブラウザの設定でJavaScriptを有効にしてください。JavaScriptを有効にするには, ジーコはなぜ、日本の鹿島アントラーズにきてプレーしたんですかね?あれだけの選手ならもっと海外のチームでも十分にプレーできたハズなのに。, サッカー・5,791閲覧・xmlns="http://www.w3.org/2000/svg">25, ベストアンサー:鹿島の七不思議かもしれませんが、日本人選手は外さないのに外国人選手は凄いハズレを引きます。 私は日本人選手に声をかけるスカウトと、外国人選手を取るフロントが違う(人. 大宮アルディージャ 観戦しても勝てる見込みがない感じが伝わります。 采配に問題があるのであれば、改善してもらわないと。 チームは、続... なぜサッカー人口は野球の6倍なのに、Wカップで好成績を残せないのですか? サッカーがプロになったばかりの日本にわざわざ来るとはどうしても考えにくいのですが・・。. ホームの試合で先制されると雲行きが怪しい。 ひとことで言えるようなものではないが、私は次の2点に集約されると思う。. ジーコジャパンはなぜ敗れたのか?. なぜ日本は「崩壊」の危機なのか. ブラジルの英雄・サッカーの神様であるジーコが. サッカー日本代表(サッカーにほんだいひょう、サッカーにっぽんだいひょう)は、日本サッカー協会によって編成される日本の男子サッカーのナショナルチーム。 samurai blue(サムライ・ブルー)の愛称で知られる。2018年7月から森保一が監督を務めている。 なぜか?, イニエスタが明日05/11の37歳の誕生日に会見をするようですが、どうしたのでしょうか?, なんで酒井選手日本に引き戻すんですか?それも古巣の柏でもなく浦和に。 当時涼平くんが亡くなった時選手として大好きだったし推してた選手だったので言葉で表せないほど悲しくて本当に辛くてず... タイタニックのローズのヌードシーンは、ケイト・ウィンスレットさんが本当に脱いでるんですか?, タイタニックって実話ですか?ジャックがたまたま豪華客船に乗っていたセレブを寝取って、その女が生き残ったって綺麗に終わり過ぎやないですか?, タイタニック1番最後にジャックとローズに拍手をしているシーンみなさんはどう解釈していますか?, https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1377407968. ジーコ前監督は06年w杯の日本代表について赤裸々に語り、「小野は2度も骨折している」など日本選手のフィジカル面の弱さを指摘。 ジーコジャパンのドイツW杯での「敗因」はなんだったのか?. どう思いますか?彼氏と温泉に行きました。 ベストアンサー:クラブチームでも十分すぎるくらい活躍していますよ。 長期に渡ってブラジルの名門フラメンゴでプレー。 81年トヨタカップでは黄金時代のリバプールを3-0で叩きのめし... ベストアンサー:鹿島はアマチュア同然だったチームにジーコが加入、最初は「まるで日曜の草サッカーレベルだ」という感想がありましたが、チームのあらゆる面をジーコが指示して強くなっていっ... 引退会見かと思ったヴィッセル神戸のイニエスタが推定年俸32・5億円から“大幅減俸”して2年延長したそうですが、結局、推定年俸いくらですか?, ヴィッセル神戸のイニエスタが契約延長しましたが年俸約33億からいくらになると思われますか?, 「キャプテン翼」を読んでみると、12~14頭身の選手が主流ですが、 実際、こういう体型のサッカー選手はいますか?, 浅野拓磨はなぜ批判を受けてるのですか?契約を切ったのは所属チーム側ですよね?減俸を受けいれチームにいろということですか?. また、翌年のチャンピオンズリーグではクラブ史上初めてグループリーグを突破、最終的にはチームをベスト8にまで導いた。, 2015年、日本とブラジルの外交関係が樹立して120周年を迎えるにあたり、在リオデジャネイロ日本総領事館より親善大使に任命された。, 1991年、「ジーコを指導者として使うチームを紹介してくれ」と知り合いの代理人から打診を受けたテレビプロデューサーが, 「昔はゲームの中に時間とスペースがあったが今はそれが全くない。30m位のスペースの中に20人が互いにプレッシャーを掛け合っている。相手が強ければ強いほどプレッシャーが厳しく巧になり、ミスが起こりやすくなる。確かにワンタッチで相手の裏をとれれば効果的に突破できる。しかしカットされカウンターをかけられる確率はさらに高い。今のサッカーはミスの数が少ない程勝つ確率が高いんだ。どんな美しいサッカーをしても負けてしまっては歴史は作れない。何年後かに記録を見た時に残るのは“0-1で負け”の一行でしかない。そうならない為に最も確実な“止めて蹴る”が必要になるんだ。判断の早さと正確性が身についていれば、ダイレクト・プレーと比較しても時間的なロスはほとんどない!中盤はシンプルに確実に・・・相手が一番嫌がるエリア(つまり敵陣ペナルティエリアの付近)に達した時に、躊躇せずに持てる技術の全てを発揮しろ」と述べている。(鈴木通訳のブログより引用。なお、文中の「ダイレクトプレー」は実際は「ワンタッチプレー」の意である), フェネルバフチェの監督時代にも、PSV戦での選手たちの走行距離が一人途中退場者が出たにもかかわらず、108kmだったというデータについてコメントを求められて「相手にいかにプレッシャーをかけたかを示していると思う。適切に走って相手スペースを消していけばこちらのものだ。それがこの試合でわれわれのしたことだ。PSVは特にホームで強いので厳しいゲームになると思っていた。しかし考えて走り、プレスをかけ、キッチリと相手をマークし、チーム一丸で攻めれば相手の脅威を減殺できる。相手の強力な選手たちに本来の実力をださせなかったわけで、この数字はその結果を示すものだ。」と回答している様に、判断力と技術が近代サッカーには不可欠と考える一方、それらを支える走力・フィジカルバランス等の肉体強化の重要性を、選手時代から一貫して主張している。, 「偉大なジーコがもたらした」鹿島のクラブW杯躍進 礎を築いた“神様”の功績に欧州が再注目, “Arthur Antunes Coimbra "Zico" - Goals in International Matches”, http://www.rsssf.com/miscellaneous/zico-intlg.html, http://worldcup.espnsoccernet.com/story?id=203639, http://news.bbc.co.uk/1/hi/programmes/newsnight/4866312.stm, 【ジーコの想い】兄・エドゥーの存在なくしてスーパースター誕生はなかった 母の希望はピアニスト, 「ジーコを崇拝する」ミラン移籍の新星。身体的ハンデを同じフラメンゴの特別サポートで, ジーコ氏、ミラン移籍破談の過去を語る「今のように望めば移籍できる時代ではなかった」, Quella volta che Zico incantò Miano e stregò tutti contro l’Inter, https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/football/jleague_other/2020/04/07/post_17/index_2.php, “神様ジーコが激怒した日――27年前の4月12日から“常勝鹿島“の歴史は始まった”, https://thedigestweb.com/football/detail/id=13394?open=on, https://sports.yahoo.co.jp/column/detail/202003290002-spnavi, https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/football/jleague_other/2020/04/07/post_17/index_3.php, “神様”ジーコ、「最高の瞬間4選」を英メディア特集 伝説のFK、鹿島時代の芸術弾も紹介, https://news.livedoor.com/article/detail/14380957/, Gabriel Jesus joins Pele, Zico, Rivaldo and Neymar as Brazil's goalscoring debutants, 「ジーコの技は誰にも止められない」82W杯、ブラジル最高傑作のチームはなぜ敗れたのか?<後編>, 1986 World Cup Northern Ireland vs Brazil, ジーコの主張 イラクのピッチだけに留まらぬ諸問題-ジーコ公式HP2012年7月28日, Zicoが監督として2年契約に署名と同時に業務開始 -ジーコ公式HP2013年8月6日, ジーコ氏、インドのクラブ指揮 ゴア監督に就任 -スポニチアネックス 2014年9月3日, http://www.sponichi.co.jp/soccer/news/2016/08/01/kiji/K20160801013078450.html, http://www.so-net.ne.jp/antlers/news/release/66469, https://web.archive.org/web/20160903215753/http://www.sankei.com/sports/news/160729/spo1607290001-n2.html, https://www.ninomiyasports.com/archives/11279, http://www.zakzak.co.jp/sports/soccer/news/20141008/soc1410081550001-n1.html, http://www.asahi.com/sports/fb/TKY201106020501.html, http://hochi.yomiuri.co.jp/soccer/world/news/20110602-OHT1T00283.htm, "【話の肖像画】サッカー指導者ジーコ(2)初来日の賞品は今でもガレージに(3/3ページ)", 「筋トレしないと運転できない!」神様ジーコが40年間も乗り続ける“セリカ”との秘話に英感動!「走行距離は驚きの…」(SOCCER DIGEST Web), 1998年3月26日放送 とんねるずみなさんのおかげでした【新・食わず嫌い王決定戦】石井竜也×ジーコ, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=ジーコ&oldid=83351761, ※1970年、1972年は賞は授与されなかったが、最も良い評価を受けたのは1970年は, ジーコジャパンにおいて一番多く得点を決め(11得点)、本大会のエースとして期待された久保竜彦と、フランス, 2006年 2006 FIFAワールドカップ本大会グループリーグ敗退(通算2敗1分), ジーコが加入した当時の住金サッカー部は選手たちのアマチュア意識が抜けなかった。そのため夕食後に寮を抜け出してスナック菓子などのジャンクフードを買いこんでくる選手たちが多かった。ジーコは彼らにプロ意識を叩きこむため、毎晩選手寮の出入りを見張り、「プロ選手のカラダ造りに菓子は必要ない」と激怒した, 『Jリーグオフィシャルガイド1993・ニコスシリーズ ヤマザキナビスコカップ』、小学館、1993. ジーコ(Zico)こと、アルトゥール・アントゥネス・コインブラ(ポルトガル語: Arthur Antunes Coimbra、ポルトガル語発音: [aʁˈtuʁ ɐ̃ˈtũnis koˈĩbɾɐ]、1953年3月3日 - )は、ブラジル出身の元サッカー選手、現サッカー指導者。2018年7月からJリーグ・鹿島アントラーズのコーチ兼テクニカルディレクターを務める。, 愛称である「Zico」は「やせっぽち」の意味で、より原音に近い表記をすればズィーク ([ˈziku]) となる[4]。, 小柄な体格であり、しばしば「白いペレ」と呼ばれることもあったが[5]、実力もペレ同様に高く、最も技術のあるフィニッシャー、最も優れたパサーの一人、1980年代初頭の世界一の選手とも評される[6]。さらに、歴史上最も優れたフリーキックのスペシャリストの一人としても知られており、速いスピードで曲がるボールを蹴ることができた。2004年3月には、ペレによる偉大な存命サッカー選手125人にも名を連ねた。歴代最も偉大なサッカー選手と言われるペレは、「今までの間、私に最も近づいたのはジーコだった」と述べた[7]。, ブラジル代表では、72試合に出場し52ゴールを挙げており、FIFAワールドカップでは1978年、1982年、1986年の3大会に出場した。これらの大会では優勝を逃したが、1982年のブラジル代表は最も優れたブラジル代表の一つと言われている[8]。1981年と1983年に、雑誌「ワールドサッカー」は、世界最優秀選手に選んだ。, 日本代表監督として、2006 FIFAワールドカップに出場し、AFCアジアカップ2004では優勝を果たした。また、フェネルバフチェSKを指揮し、UEFAチャンピオンズリーグ2007–08で準々決勝に進出した。, ポルトガルからの移民で厳格な家庭であったという[9]。パン職人(後に洋服仕立て屋)で生計を立てていた父はフラメンゴとプロ契約寸前まで行ったGKであった[10]。ジョゼ・アントゥネス・コインブラとイタリア系の母マチウデの5男1女の末子として出生[11]。母親は息子アルトゥールをピアニストにさせたかったが[11]、彼の兄弟アンツネスとエドゥアルト(エドゥ)の影響もあり多くのブラジル人と同様に、サッカー選手を目指す様になる[11]。家業の仕立屋も多忙で父ジョゼの遅い息子だった事もあり実兄のゼッカとエドゥが両親の代わりにジーコの面倒を見ていた。, 1967年、14歳の時にブラジル・リオデジャネイロのフラメンゴのユースチームのテストに合格し加入。細身でフィジカルも弱かったが、身体を鍛え抜くなど、弱点を克服[12]、ユースチームで116試合81得点という記録を残すと1971年にジーコはフラメンゴのトップチームに昇格した。前年、現夫人となるサンドラ(エドゥの妻の妹)と出会い、4年後の1975年にサンドラと結婚[10]。, フラメンゴでは、10年以上に渡って在籍し中心選手としてプレーし、コパ・リベルタドーレス1981やトヨタカップ、4度のブラジル全国選手権(1980年、1982年、1983年、1987年)で優勝した。コパ・リベルタドーレス1981では得点を量産し、決勝のブレロア戦、1stレグで2ゴールを決めて勝利に貢献[9]、2ndレグを0-1と落としたが[9]、優勝決定戦となった3rdレグで2ゴールを決め[9]、優勝に大きく寄与した。同年トヨタカップではリヴァプールを3-0と破り優勝、ヌネスの2ゴールをアシストし大会MVPに選ばれた[13][14]。また在籍時の28歳の頃、ACミランへの移籍が進んでいたが、破談になった[15]。, 1983年にイタリアのウディネーゼへ移籍、この移籍はフリウーリ地区のみならず、イタリア国内でも大騒動となり[16]、イタリアサッカー協会により移籍が合法的に行われたかの調査が行われた[17]。8月21日のコッパ・イタリア、グループリーグのボローニャ戦で移籍後初ゴールを決め、9月12日、セリエA開幕節のジェノア戦で2ゴールを挙げ[18]鮮烈なイタリアデビューを飾り、更に第2節のカターニャ戦でも2ゴールを決め[18]、その後、更に2試合連続ゴールとセリエA開幕戦から4試合連続ゴール(合計6ゴール)を決めた[18]。ジーコ個人は1983-84シーズンに19得点をあげ得点ランキングの2位となった(怪我の影響で20得点で得点王となったミシェル・プラティニより試合出場が4試合少ない)[19]。これらの活躍によってサポーターの人気を集めた。1984-85シーズンは怪我での離脱[20]、長期の出場停止があったが[17]、3月31日のインテルで約半年振りのゴールを決めると[20]、次節のユベントス戦でもゴールを決めたが[21]、契約の問題で、このシーズンを最後にイタリアを去ることとなった。また、インテルへの移籍話もあったが上手く交渉がまとまらず実現しなかった。ジーコ自身インテルへの移籍に非常に乗り気だったので残念だったと語っている。, 1989年にはブラジル代表としての引退試合をウディネーゼで開催した[10]。また2017年にチームを訪問すると、ファンから大きな歓迎を受けた[19]。, 1988年には日本のトヨタ入りの話が出て、条件などが話し合われていたが[22]、交渉はまとまらず、 1989年3月27日にイタリアのウーディネでブラジル代表引退試合(対世界選抜)が行われ、同年12月のブラジル全国選手権、フルミネンセ戦がブラジル国内の公式戦最後の試合となった。フラメンゴ在籍中に731試合に出場し508得点の記録を残したが、得点はクラブ史上最多記録である。, 翌1990年のブラジル初の大統領選挙によって誕生したフェルナンド・コロール・デ・メロ大統領は、ジーコをスポーツ担当大臣に任命した。ジーコはおよそ1年間この政治的な任務を務めたが、1991年に将来のプロリーグ参加を表明していた日本サッカーリーグ2部の住友金属工業蹴球団(現、鹿島アントラーズ)のオファーを受けると大臣を辞任し、再び現役選手としてピッチに立つ事になった。[23], ジーコの入団について当時Jリーグ理事長だった川淵三郎は、「当初、紹介した古河電気工業サッカー部(現、ジェフユナイテッド市原・千葉)にそのまま加入してもらおうと思っていたが、当の古河電工はジーコ入団に難色を示し、その後断りをいれた。そのため、新たに住友金属を紹介したところ、住友金属のアピールもあって、ジーコの入団が実現した」と語っている。ジーコ本人は日本からの打診に難渋していた所、ルイス・アントニオ高崎がプロ選手としての獲得という契約を出され、何ら具体的な連絡も無くビジネスの定石から逸脱した事後承諾のような状態に狼狽する。引退イベントも既に終えて年齢的に再び選手として走る気は無かったが、ゼロからプロサッカークラブを築くという話に魅力的なものを感じたジーコは住友金属と契約し来日。, 鹿島では選手としてプレーするだけでなく、現場での全体への指導や試合中の采配も兼任し、カシマスタジアムの芝の長さも自ら決定していた。その結果、旧2部リーグの弱小チームを名実ともに日本を代表するサッカークラブに成長させることになるが、来日早々は有名ゲスト扱いで毎夜何らかの会合に呼ばれてはスター選手として持て成されていた。しかし当の本人は、練習場へは電車で通勤し、ロッカールームには所属選手らの汚れたシューズが散らかっていた際は、「こんな汚い所では寛げないよ、次もこんな状態だったら僕が全部捨てるよ」と激怒するなど[24]、日本人のサッカーに対する姿勢の改善に苦心していた。1991年7月26日の磐田市長杯サマーサッカー、ヤマハ発動機戦で直接FKから住友金属移籍後初ゴールを決めると[25]、8月18日のJSL、三菱戦で公式戦初ゴールを決めた[25]。1992年10月11日のJリーグカップ、サンフレッチェ広島戦ではハットトリックを決めた[26]。, 1993年のJリーグが開幕前にして、サントスの他にもう一人外国人の戦力補強が必要だと考え、アルシンドを日本に呼び寄せた。イタリア遠征を行うが、セリエAのチームに次々敗北、クロアチア戦では1-8と大敗[27]、帰国後、カシマスタジアムのこけら落としとなった、フルミネンセFCとの親善試合で、ジーコはカシマスタジアム第1号となるゴールを決め[28](自身の現役通算800ゴール [29])、勝利した。迎えた開幕初戦、名古屋グランパス戦でいきなりJリーグ初のハットトリックを決め5-0で勝利した[30]。2節以降は怪我で欠場、6月23日ヴェルディ川崎戦で復帰したが、またも怪我で欠場したものの、アントラーズは1stステージ制覇。セカンドステージでは9月3日のジェフ市原戦での延長Vゴールなど[25]、13試合6ゴールの成績を残し[25]、天皇杯の2回戦、東北電力戦ではヒールボレーでその後も称賛され続けるゴールを挙げた[31]。しかしチャンピオンシップ、ヴェルディ川崎戦の2ndレグでは退場処分となった[32]。, 1994年第1ステージは怪我の影響で5月14日のサンフレッチェ広島戦から復帰、6月1日のガンバ大阪戦でシーズン初ゴールを決め[25]、6月8日の浦和レッズ戦[25]、6月11日ベルマーレ平塚戦では2ゴールを決めた[25]。現役最後の公式戦となった6月15日のジュビロ磐田戦では直接FKを蹴り、これがバーに当たり1点目のゴールが生まれ[25]、前半21分に相馬直樹のパスからボレーシュートで、通算817ゴール目となる決勝ゴールを決めるなど[25][33]怪我を押して後半11分までプレー[25] 、最後の3試合で3試合連続ゴールを決めたこととなった。試合後には磐田サポーターからもジーココールが続いた[25]。7月23日のJリーグオールスターサッカーに先発フル出場[34]したのを最後に、ブラジルへ帰国したが、1994年秋にはジーコカーニバル(引退記念イベント)の一つとして、カシマスタジアムで行われた、ロベルト・リベリーノ監督が率いたJリーグ選抜対アントラーズの試合に出場した。1995年に鹿島のテクニカル・アドバイザーに就任し、これ以降も日本との関係を維持し続けた。, プロとしての現役からは退いたものの、ビーチサッカーのブラジル代表ではプレーしており、ビーチサッカーチャンピオンシップ(後のFIFAビーチサッカーワールドカップ)では1995年と1996年の2大会で優勝し、1995年の大会ではMVPおよび得点王にも輝いていた。1996年にリオデジャネイロでCFZ(ジーコFootballセンター)を設立、ブラジル国内の選手育成や、かつては鹿島の若手選手育成の場として用いられていた。以降、このCFZ運営資金の為に、監督業に本格的に乗り出した。, 1976年2月25日のウルグアイ代表との親善試合にブラジル代表として初選出され、その試合で得意のFKからゴールを決めるデビューを果たし[35]、次の29日アルゼンチン代表との親善試合でもゴールを決めた。FIFAワールドカップには1978年、1982年、1986年の3大会に出場した。, 初のワールドカップ出場となった1978年のFIFAワールドカップ・アルゼンチン大会では、初戦のスウェーデン戦で先発出場(フル出場は同試合のみ)。終了間際のコーナーキックからの得点が取り消された(ウェールズ人主審のクライブ・トーマスはジーコがシュート体勢に入る直前、ボールが空中にある状態で試合終了の笛を吹いたと主張。)。2次リーグのペルー戦ではゴールを決めたが[36]、この2次リーグではいずれの試合でも僅かな出場時間しか得られず[36]、最終節のポーランド戦では先発するも、僅か7分で負傷交代、チームは3-1と勝利したが[36]、最終節でアルゼンチンが大勝したことで、逆転され決勝には進出出来ず、また3位決定戦となったイタリア戦でも出番を得られないなど[36]、不本意な大会となった。, 1982年、FIFAワールドカップ・スペイン大会では名将テレ・サンタナ監督の下でソクラテス、ファルカン、トニーニョ・セレーゾと共に「黄金のカルテット」(クワトロ・オーメンジ・オロ)を形成。技巧的なパスワークと攻撃力で優勝候補の大本命と目された。1次リーグでは第2戦のスコットランド戦では直接FKから1ゴール[36]、第3戦のニュージーランド戦で2ゴールを決め[36]、2次リーグに進出、アルゼンチン戦では1ゴール[36]2アシストの活躍で勝利に貢献[37]、最終戦でのイタリア戦では、クラウディオ・ジェンティーレの執拗なマンマークにあう。5分にイタリアのパオロ・ロッシに先制されたブラジルは12分、ハーフウェイラインを超えドリブルして来たソクラテスがジーコにスルーパスを出すと、ジーコはクラウディオ・ジェンティーレのマークをターンで外し、そのままゴールに走り込んだソクラテスにリターンのスルーパスを出し、同点ゴールをアシストした[38]、しかし2-2で迎えた75分、ブラジルはDFのミスからロッシに3点目を決められて敗戦し、準決勝には進めなかった(現在の規定でベスト8相当)、しかし、この時に披露したサッカーは「ブラジルサッカー史上最も魅了したチーム」と称えられている。, 1986年、FIFAワールドカップ・メキシコ大会直前のユーゴスラビアとの親善試合ではハットトリックを決めたが[36]、膝の負傷(国内リーグ戦の、対バングー戦で相手DFの悪質なタックルを受けた)によって数ヶ月間プレーを中断、膝の負傷は癒えず、控えに回った。最後のワールドカップは、グループリーグ最終戦の北アイルランド戦(カレッカのゴールをアシスト[39])、ラウンド16のポーランド戦でいずれも途中出場[36]、準々決勝のフランス戦では交代出場直後にみせたスルーパスによって獲得したPKを自らが蹴るが、これをバツに防がれ[40]、延長PKの末に敗れ、現役を通じてワールドカップ制覇を成し遂げることは出来なかった。, 1998年に鹿島のテクニカル・アドバイザー在任中に、ブラジルサッカー連盟の要請を受けブラジル代表のテクニカル・ディレクターに就任し、FIFAワールドカップ・フランス大会にスタッフとして参加した。, 2002 FIFAワールドカップ終了後、フィリップ・トルシエの後任として2002年7月22日に日本代表監督に就任。日本代表監督最高額の年俸だった。それまで監督経験は無かったものの、ブラジル代表のスタッフを務めた経験や、鹿島の選手やテクニカルディレクターとして同クラブの躍進に尽力した経験からの抜擢であり、日本サッカー協会会長の川淵三郎の意向でもあった。, ジーコはAFCアジアカップ2004に優勝。FIFAコンフェデレーションズカップ2005では初戦のメキシコには敗れたもののギリシャに勝利し、ブラジルとは2 - 2で引き分けた。またワールドカップ地区予選を世界中の国に先駆けて最も早く突破しW杯直前のドイツとの親善試合を引き分けるなどの結果を残した反面、細かな規律を設けない選手の自主性に任せた指導(後述)は様々な波紋を呼び議論の的となった。, 日本代表監督での国際Aマッチ指揮試合(71試合)と勝利数(38勝)はいずれも歴代1位の記録であり、日本サッカー史において4年間通じて指揮を執りプレーオフも無くW杯地区予選突破を果たした最初の監督になった。成績等については下の諸項目を参照のこと。, 2006 FIFAワールドカップ終了後、日本代表監督を契約満了により退任。その後、2006年7月4日にトルコ・シュペルリガのフェネルバフチェの監督に就任。2006-07シーズンは、カップ戦は取れずに終わったが、リーグ戦では序盤で首位に立ってから一度もその座を譲ることなく2007年5月13日に優勝した。, 2008年に行われたUEFAチャンピオンズリーグの決勝トーナメントへ同クラブを初めて導いた。決勝トーナメントではセビージャにPK戦の末勝利し、ベスト8に進出。準々決勝では強豪チェルシーと対戦。圧倒的な不利の下馬評の中、ホームでは2-1で勝利した。しかし、続くアウェイでの試合では0-2と敗れ、ベスト4進出はならなかった。2007-08シーズンの国内リーグでは2位。シーズン終了後、任期満了に伴い延長交渉を受けたが、クラブとの条件が合わず退任。, 2008シーズンはウズベキスタンの強豪チームブニョドコルでリーグ戦途中から指揮を執ることになった。就任直後に行われたAFCチャンピオンズリーグはアデレード・ユナイテッドに敗退(1勝1敗・合計スコア 1-3)したが、ウズベキスタンカップとウズベキスタンリーグはともに優勝し、二冠に輝いた。また、ウズベキスタン代表のアドバイザーも兼任していた[42]。2010 FIFAワールドカップ・アジア4次予選(最終予選)の対日本代表戦(10月15日・さいたまスタジアム)に来日して視察するのは断念したものの[43]、日本代表対策をカシモフ監督に伝授し、アウエーで1-1の引き分け(勝ち点1獲得)に貢献した[44][42]。ブニョドコルとの契約期間は2009年12月までだったが、ロシアプレミアリーグのCSKAモスクワがガザエフ監督の後任としてジーコに興味を示した為に、クラブとの話し合いの末、円満退団した。, 2009年1月、CSKAモスクワの監督に就任。契約期間は3年間。UEFAカップ 2008-09ではラウンド16で敗退した。ロシア国内では国内カップ戦で優勝したものの、リーグ戦は首位に勝点を大きく引き離され4位と低迷していた。CSKAモスクワはジーコが来る前の過去6シーズンで優勝3回、準優勝2回のロシアリーグの強豪であり、2009年9月10日にジーコは成績不振で解任された。ジーコが率いた2009シーズンの成績は巨額スポンサーと契約を結び、黄金時代が到来した2003年以降の中でワースト記録となっている(2014年現在)。, 2009年9月16日、ギリシャ・スーパーリーグのオリンピアコスの監督に就任した。チャンピオンズリーグではベスト16に進出するも、国内カップ戦でフルメンバーを率いて2部チームに1回戦で敗退し、リーグ戦でも一時は勝ち点2差の2位に付けたもののその後勝ち点7差まで引き離されて解任された。, 2010年1月28日、2022 FIFAワールドカップ日本開催招致アンバサダーに就任。, 2010年6月にフラメンゴのテクニカルディレクターに就任したが、10月にはクラブ内での対立を理由に辞任を表明した[45][46]。, 2011年4月、同年3月に起こった東日本大震災の惨事を悼み日本でのチャリティーマッチとは別に南米でチャリティーマッチを行った。Jリーグで活躍したブラジル人を中心にアルシンド、ドゥンガ、ロマーリオなどが参加した。なお、三浦知良にも参加を要請したが、「Jリーグに専念したい」と言う理由で辞退している。, 2011年6月、5年ぶりに来日し、6月4日にカシマスタジアムで行われた慈善試合に出場し、決勝ゴールを決めた[47]。, 2011年7月、リオデジャネイロで行われた2014 FIFAワールドカップ・ブラジル大会の大陸別予選組み合わせ抽選会のくじ引きでアジアを担当した[48]。, 2011年8月、イラク代表監督就任の報道が出る。8月29日、正式にイラク代表監督に就任する。契約期間は、1年。元々イラクをW杯に出場させた経験を持つ、ジーコの兄エドゥに来たオファーだったが兄から譲られジーコがイラク代表監督に就任した。, 2012年7月28日、ジーコ自身の公式HPで、ジーコは5か月間、スタッフは10か月間給料未払いであることや9月11日に予定されている2014 FIFAワールドカップ・アジア4次予選B組第4戦日本戦に出場予定のイラク代表選手7名の所属クラブが無く、練習が困難という状況に対してイラクサッカー協会が何ら手を打たないことを理由として、イラク代表監督辞任を示唆したが[49]、8月7日から弁護士を通じて、給与未払い問題については支払先の銀行口座を再確認するなどの条件のもと、2014年夏までの契約継続を確認した[50]。契約の細部の見直しなどを終えてからイラクでの監督活動を再開した。しかし、11月27日イラク代表の監督を辞任した[51]。, 2013年8月、カタールのアル・ガラファの監督に就任。しかしわずが5ヶ月後の2014年1月に成績不振により監督を解任された。ジーコは「結果がついてこなかった。残念だがサッカーとはこういうものだ」と自身のフェイスブックで語った。CSKAモスクワ、オリンピアコスに続きクラブチームの監督として3回連続で成績不振で解任となった[52]。, 2018年7月、鹿島アントラーズのテクニカルディレクターに就任すると発表され[55]、8月にはコーチとして役員登録された[56]。, ブラジルサッカー界の英雄であるペレになぞらえ「白いペレ」とも呼ばれていた[5]。また、長く選手として在籍したフラメンゴのホームスタジアムエスタジオ・ド・マラカナンの名称から「マラカナンの英雄」とも謳われた。, 幼少時代に兄が所属するチームが得点する度に雄鶏(galo ガーロ)の掛け声(cocorecoo!)をしていた事から愛称は「ガリーニョ・デ・キンチーノ」(キンチーノ地区の雄鶏小僧)[57] と呼ばれた。サッカーを目指した華奢で小柄なアルトゥール少年は周囲から「アルトゥルジーニョ」と呼ばれ、アルトゥールズィッコ(Arturzico)となり、最後は語尾の「ZICO」だけとなり以後定着している。フラメンゴ時代やブラジル代表時代、また鹿島アントラーズ時代の選手、親しい関係者間では「ガーロ」の愛称で呼ばれている。, フェネルバフチェ監督時代は、ファンから本名のアルトゥールと同じ綴りであるアーサー王伝説から「アーサー王(King Arthur)」と呼ばれていた。, 1975年にサンドラ夫人と結婚。3人の息子をもうける。長男のジュニオールは元サッカー選手、サガン鳥栖でプレイしていた時にはジーコも鳥栖まで訪れた。なお、ジュニオールの妻は日系人である[58]。次男はブラジルで有名な歌手ブルーノ・コインブラ。実兄はエドゥ(元鹿島アントラーズ監督、元日本代表テクニカルディレクター)。, ブラジルは、サンバやボサノヴァ、またブラジル音楽などで知られる音楽大国であるが、彼もまたブラジル音楽を好むことで知られる。1994年には友人であるファギネルが来日した際のアルバムにコーラスで参加。ポニーキャニオンでは、ホベルト・メネスカルと組んでジーコレーベルと称して、何組かのアーチストのアルバムを発売、また息子であるブルーノもパゴージ(サンバの一形態)でCDデビューを果たした。エスコーラ・ジ・サンバ・ベイジャ・フロールの大ファンとして知られ、その一員としてパレード会場を行進する姿が日本のメディアでも紹介されている。, 人格者として知られているが、ウディネーゼでの2シーズン目には審判への暴言で長期出場禁止処分を受けた[17]。また1994年1月に国立霞ヶ丘競技場で行われたJリーグチャンピオンシップ第2戦では三浦知良のPKの際にボールへつばを吐く非紳士的行為で退場(この日2枚目の警告)となった。のちにジーコ本人は「Jリーグ初年度の優勝決定戦という歴史的な記念試合であのような行為をした事を申し訳なく思う」と反省の弁を語っている。愚行に至った理由としては相手チームに有利な開催地に不満があったことと、ビハインドの展開での不利な判定に対する憤りがあったと振り返っている[32]。上記の様にプレー中は熱くなることもある。, ロベルト・バッジオは幼少の頃ジーコに憧れ、フリーキックの蹴り方を真似ていた[59]。またバッジオから、自身のフリーキックの精度向上のため、フリーキックを蹴る映像を送って欲しいと依頼され、ジーコは自ら多くの時間を割いて、映像を編集したビデオを送付した[60]。, 日本代表監督時代はチームに細かい約束事やペーパープランは与えず、大まかな指針を決めた後は選手間で協議をさせることで、現場の現実を組織全体の方向性に反映させるというやり方をとった。オシムやベンゲルを始めとした日本で指導した有識者達の多くから、日本人は実際に起こっている現実から判断をせず、現実と乖離する決まり事に従うという独特の短所があると指摘されており、ジーコはそれが実践的な戦いの大きな妨げになっているとし「自主性」を大きなテーマとしたのである。ジーコが就任した前後の時期は、日本人選手が次々に海外リーグへと進出していく時期と重なり、中田や中村や小野など、過去の日本にはない「才能と欧州経験を兼ね備えた選手」が揃っていたため、彼らのセンスと閃きに期待が大きかったが、W杯での惨敗を受け、中田をはじめ多くのコメンテーターが「日本にはまだ早かった」と総括した。また近代サッカーにおいては、ミスの有無こそが勝敗を大きく左右すると考えていたために、特に中盤の選手には一定の技術水準を求めた[61]。この選考基準に対して、走力を優先する後任のオシム監督は「水を運ぶ選手(豊富な運動量でチームを支える選手)が福西しかいなかった」と批判したが、一方でW杯予選を勝ち抜いたことを「ジーコの果たした仕事は大きくトルシエより上だ。それは単純に予選を突破したという意味でね」と一定の評価をしている[62]。そのカリスマ性と人柄から多くの選手に慕われる一方、マスコミから「序列」と揶揄されてしまうほどレギュラーメンバーを欧州組に固定し、そのレギュラーが欠場しないと控えの選手になかなか出番が与えられなかったり、召集メンバー発表の際に「今日がキックオフならこのスタメン」と、試合の何日も前に予定スタメンを発表し『序列』を明確に示してしまい、サブメンバーの士気を落とさせてしまうなど、選手のモチベーションコントロールでの失敗も多く見られた。実際、2004年に起こった選手の無断外出キャバクラ事件も、入店せずに引き返した山田を除く全員がサブのメンバーで、合宿をする前から起用される選手が決められている事への不満が原因とされている。2006年W杯でも選手の士気をコントロールできず、起用法への不満やレギュラーとサブの結束が不安定な状態で迎えた初戦に敗れた事で、チームは空中分解してしまった。初戦のあとその空気に、普段温厚なジーコが今までに見せた事のないほど激怒し選手を怒鳴ったが状況は改善されず、チームは「史上最強」と言われながら良いところなく敗退した。, 日本代表監督として招集した人数はとても多く試合出場選手の総数は57人である。[2](トルシエは総数で64人 [3])。定着はしなかったものの、オシム時代に選出されたアテネ世代の主要選手の多くは鈴木・闘莉王以外、ジーコ時代にフル代表デビューしている。, 日本代表退任後、トルコリーグ所属フェネルバフチェ監督に就任した。トルコカップは敗退したが、リーグ戦では2位に勝点差9をつけて優勝した。これは1990年以降のトルコリーグで最大勝点差である。