井伊 直虎(いい なおとら)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての遠江井伊谷[注釈 1]の領主。「井伊直虎」という名の人物についての同時代史料は一通の書状しか存在しないが、通説では江戸時代に書かれた井伊氏の家伝、『井伊家伝記』において女性ながら井伊家当主になったと記載された井伊直盛の娘、次郎法師(じろうほうし)と同一人物とされる。その存在については、様々な考察がなされている(#「直虎」と「次郎法師」との関係に関する議論参照)。, 次郎法師は曾祖父は井伊直平、祖父は井伊直宗で、井伊直親と婚約したといわれるが生涯未婚であった。徳川四天王・井伊直政の養母と伝わる。, 『井伊年譜』などでは「築山殿は井伊直平の孫娘」と記されており、その場合、築山殿は従叔母(いとこおば)に当たる。, 遠江井伊谷城主(国人)の井伊直盛の娘として誕生[8]。母は新野親矩の妹・祐椿尼[2]。生年は定かではないが、天文5年(1536年)前後に誕生したのではないかとする説がある[1]。, 幼名は不明。父・直盛に男子がおらず、直盛の従兄弟にあたる井伊直親を婿養子に迎える予定であった。天文13年(1544年)、今川氏与力の小野政直の讒言(ざんげん)により、直親の父・井伊直満が弟の直義と共に今川義元への謀反の疑いをかけられて自害させられ、直親も井伊家の領地から脱出、武田領の信濃に逃亡した。井伊家では直親の命を守るため、所在も生死も秘密となっていた。許嫁であった直虎は龍泰寺(のちの龍潭寺)で出家し、次郎法師(次郎と法師は井伊氏の二つの惣領名を繋ぎ合わせたもの)を名乗った[2]。直親は弘治元年(1555年)に復帰して直盛の養子となるが、一族の奥山朝利の娘・おひよを正室に迎えたため、直虎は婚期を逸することになったとされる。, 永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いにおいて父・直盛が戦死。養嗣子としてその跡を継いだ直親は、永禄5年(1562年)に小野道好(政直の子)の讒言によって今川氏真に殺された。直虎ら一族に累が及びかけたところ、母・祐椿尼の兄で伯父にあたる新野親矩の擁護により救われた。永禄6年(1563年)、曾祖父の井伊直平が今川氏真の命令で天野氏の犬居城攻めの最中に急死[注釈 2]。永禄7年(1564年)には井伊氏は今川氏に従い、引間城を攻めて新野親矩や重臣の中野直由らが討死し、家中を支えていた者たちも失った。井伊家の菩提寺である龍潭寺住職の南渓瑞聞により、直親の子・虎松(のちの井伊直政)は鳳来寺に移された。, 永禄8年(1565年)、次郎法師は還俗し直虎と名を変え井伊氏の当主となった。「直虎」は仮名であって、本当の名前ではない[9]。『井伊家伝記』によると「次郎法師は女こそあれ井伊家惣領に生候間」とある。直親の死去により、次郎法師しか後継者がいなかった[10]ため、直盛の未亡人と龍潭寺の南溪和尚が相談の上、女性地頭を誕生させた[11]。「女地頭」とも呼ばれたが、この時代の「地頭」は鎌倉時代の意味ではなく、領主の意味として使用されていた[12]。, 永禄8年9月15日、龍潭寺への寄進状に直虎が黒印を捺して寺領を確認した。自分の家の菩提寺ではあるが公的な印判状を出し、書き止め文言が「仍如件」とあるので領主として領域支配に取り組んでいた[11]。印判状の文中で直虎は「次郎法師」と名乗る事で龍潭寺を中心とした宗教秩序の構築の主張に関わる権利、そして井伊家の惣領としての権利を手に入れており、宗教的な権威と実質的権力を持った[13]。, 永禄9年(1566年)霜月吉日、直平の菩提を弔うために川名の福満寺に鐘を寄進した[14]。, 同年、今川氏真は井伊谷一帯(井伊谷と都田川)に徳政令を出しているが、2年間実行されなかった。これは直虎が氏真の徳政をはねつけたためだが、永禄11年11月9日、徳政令の発動に踏み切らざるを得なくなった。「次郎直虎」と署名した文書があり、今川氏の関口氏経と連署して徳政を蜂前神社に伝えている[15][16]。この背景には、直虎は債権主である銭主方と結託して徳政を施行しようとはせず、農民は今川氏を頼りに徳政の実施を迫っていた状況がある[17]。すなわち、直虎と銭主方による徳政令拒否派と、井伊氏の家老小野但馬守(道好)と結ぶ祝田禰宜ら徳政令要求派の対立があり[18]、この状況は今川氏にとって井伊家に介入する絶好の機会となったといえる[19]。, 小野道好の専横は続き、永禄11年(1568年)には居城・井伊谷城を奪われてしまうが、小野の専横に反旗を翻した井伊谷三人衆(近藤康用・鈴木重時・菅沼忠久)に三河国の徳川家康が加担し、家康の力により実権を回復した。元亀元年(1570年)には家康に嘆願し、家康は道好の直親への讒言を咎め処刑する。しかし、元亀3年(1572年)秋、信濃から武田氏が侵攻し、居城・井伊谷城は武田家臣・山県昌景に明け渡し、井平(伊平)城の井平直成も仏坂の戦いで敗死すると、徳川氏の浜松城に逃れた。その後、武田氏と対した徳川・織田連合軍は三方ヶ原の戦いや野田城の戦いまで敗戦を重ねたが、武田勢は当主・武田信玄が病に倒れたため元亀4年(1573年)4月に撤退した。, その間、直虎は元許嫁・直親の遺児・虎松(直政)を養子として育てた。天正3年(1575年)、直政が15歳の時に徳川氏に出仕させ、その際に直政は300石を与えられた[20]。, 晩年は、母が落飾後に過ごした龍譚寺の松岳院で過ごしたとも、自耕庵で過ごしたともいわれる。天正10年(1582年)8月26日、死去[3]。家督は直政が継いだ。, 後年の追善供養による諱名「妙雲院殿月船祐圓大姉」[2]により、自耕庵は妙雲寺に改められた[5]。, 祝田郷の有力者宛に徳政令の実施を命する書状に「次郎直虎」の署名が見られる以外に、「井伊直虎」という名の人物についての同時代史料がほとんどないことから、その実態、ひいては性別についても様々な議論、異説が存在している。, 井伊直虎=次郎法師(女) とされた根拠は、先述の徳政令の書状の署名より「当時”次郎直虎”と名乗る領主が居た」ことと、戦国時代の井伊直平とその子孫の活躍、井伊直政の幼少期までが叙述される『井伊家伝記』にて、”次郎法師”が同国の国衆・井伊氏の事実上の当主を務め、「女地頭」と呼ばれた(この時代の「地頭」は「領主」という意味である[12])、との記述による。当時の一次史料や、『井伊家伝記』自体には次郎法師が「直虎」を名乗ったという明確な記述はない[21]。また、『井伊家伝記』自体も、誤伝を含む地元の伝承をもとにして記述されており、史実とは言い難い内容も多い史料である。特に井伊直親と許嫁であったという点は、直親が信州に逃れた天文13年(1544年)時点で、直親は10歳、直盛は19歳であり、この時その娘(直虎)が生まれていたとしても、出家しようという判断力のある年齢ではないため、史実ではなく創作されたものとする考えもある[22]。, このような状況下で、2016年(平成28年)12月、京都市の井伊美術館[注釈 3]館長・井伊達夫が「『井伊直虎は女性(次郎法師)ではなく別人の男性』と示す史料が新たに確認された」と発表した。それによると、「『井伊直虎』とは今川氏家臣・関口氏経の息子(次郎法師の母方の従兄弟にあたる人物)を『井伊次郎』と名乗らせて当主としたものであり、井伊直盛の娘である次郎法師とは別人である」という。, 発見された史料は、享保20年(1735年)に編集された「守安公書記」(全12冊)で、その中には寛永17年(1640年)に新野親矩(井伊直盛の妻及び関口氏経の兄弟)の孫で井伊家家老を務めた木俣守安が聞き書きした記録を、子孫の木俣守貞が筆写したという「雑秘説写記」も収められていた。井伊館長が約50年前に骨董品店で入手した史料の中にあり、取材をきっかけに読み返したところ「井伊次郎」の記述を見つけたという。史料内では今川氏真の配下にあった井伊家について記されており、井伊谷の領地が新野親矩の甥で、先述の関口氏経の子である「井伊次郎」に与えられたと後から書き加えられた形での記述があり、これが別人説の根拠とされる。一方で同史料中の記述は「井伊次郎」に留まり、仮名である「直虎」の文字は見当たらなかったという[24][25]。, 小和田哲男はこの史料が江戸時代に書かれたもので同時代史料でないこと、当該の「井伊次郎」が直虎である記述がないこと、「次郎」は井伊家総領代々の仮名であり、次郎法師が存在する段階で別の人物が「井伊次郎」を名乗るのは考えにくい点を指摘している[26]。また、『龍潭寺文書』中に次郎法師名で発給された印判状があり、出家した次郎法師が一時的にではあれ井伊谷を支配していたことは明らかである」としている[26]。, 大石泰史は、2016年(平成28年)12月に井伊達夫が「直虎は次郎法師とは別人の男性である」という説を発表する約2か月前に「次郎法師、そして直虎が男性か女性かは断定出来ない」と著書で述べつつも、小和田と同様に「同時期に井伊家内部で「次郎」を名乗る人物が二人いたとは考え難く、次郎法師と次郎直虎は同一人物であろう」と推測している[27]。, 以上を総合すると、井伊達夫の主張は「井伊次郎法師(女性)≠井伊次郎直虎(男性)」、小和田哲男の主張は「井伊次郎法師(女性)=井伊次郎直虎(女性)」、大石泰史の主張は「井伊次郎法師(性別不明)=井伊次郎直虎(性別不明)」となる。, 磯田道史は、『瀬戸方久宛今川氏真判物』によると永禄11年(1568年)9月においては次郎法師が井伊谷の支配者であったと今川氏が認識していたと指摘した。その上で、同年11月の書状に「直虎」の名前が急に登場することから、磯田は武田・徳川の圧力を受けて滅亡寸前だった氏真が、次郎法師が支配する井伊谷に傀儡当主、すなわち直虎を送り込んだが、翌12月の家康の井伊谷併呑と今川家滅亡によって追い出されたと推測した[28]。この主張は、「井伊次郎法師(女性)≠井伊次郎直虎(男性)」という点では井伊達夫と一致しているものの、二人ともが当主の座についているという立場である。, また渡邊大門は、「『守安公書記』『雑秘説写記』は江戸中期に成立した編纂物で、そのまま史実と認めるにはいかず、ほかの裏付けとなる史料による検証が必要であろう」と慎重な姿勢をとっている[29]。, 共保 - 共宗 - 宗綱 - 共章 - 共家 - 共直 - 惟直 - 盛直 - 良直 - 彌直 - 泰直 - 行直 - 景直 - 忠直 - 直氏 - 直平 - 直宗 - 直盛 - 直親 - ※(直虎), 直政 - 直孝 - 直澄 - 直興 - 直通 - 直恒 - 直治 - 直惟 - 直定 - 直禔 - 直定 - 直幸 - 直中 - 直亮 - 直弼 - 直憲 - 直忠 - 直愛 - 直豪 - 直岳, 直勝 - 直好 - 直武 - 直朝 - 直矩 - 直陽 - 直員 - 直存 - 直郡 - 直朗 - 直暉 - 直経 - 直充 - 直安 - 直方 - 英彰 - 修 - 達夫, https://web.archive.org/web/20161104141336/http://www.at-s.com/news/article/culture/shizuoka/229482.html, http://www.nikkei.com/article/DGXLZO10673470U6A211C1CR8000/, http://www.asahi.com/articles/ASJDB62T9JDBPLZB00K.html, “「大河ドラマ」時代考証者が「男性説」に反論…「直虎が女性だった」と断言できる根拠〈dot.〉”, https://dot.asahi.com/dot/2017012600151.html, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=井伊直虎&oldid=82091699, 『井伊直政誕生物語』(2013年9月25日)、静岡県浜松市北区神宮寺川緑地)→『井伊直虎と徳川家康』(, 井伊家の千年にわたる歴史をわかりやすく図解した物語。作画は伊藤信次、原作は引佐地区有志。製作は彦根市井伊家家臣の会「橘会」。. 室:綾(父:井伊直致) 井伊直弼 生没年:1815-1860 父:近江彦根藩十三代藩主 井伊直中 義父:近江彦根藩十四代藩主 井伊直亮 幼名:鉄之介、鉄三郎 1846 従四位下 1846 侍従 1846 玄蕃頭 1849 左近衛権少将 1850-1860 近江彦根藩十五代藩主 1850 掃部頭 1855 左近衛権中将 1857 従四位上 1858-1860 大老 … 井伊直弼の大老政治について| 彦根城博物館|Hikone. 一 井伊家の始まり始まり?? 二 直 (なお) 虎 (とら) 曽祖父、直平と娘、直の方. 井伊家系図 ⑮直 なおただ 忠 と数える物。井伊家の元祖いう伝説上の人中より出生したと平安時代、井戸の 下にあった駿河の今川氏の配谷を治めた領主。(静岡県)の井伊戦国時代、遠江国 に貢献川家康の天下統一ひとりとして、徳「徳川四天王」の 幕府の重鎮後見役をつとめた将軍家光・� 2017年の大河ドラマの主人公・井伊直虎。この井伊直虎のかつての婚約者と、妻の間に生まれたのが井伊直政です。徳川家を支える「徳川四天王」にまでになった直政ですが、実はその生まれには「井伊家の悲劇」が関係しています。そんな彼も家紋と生涯をまとめました。
ソフトバンク 決算資料 フォント, ヨドバシ オーブンレンジ シャープ, ポムポムプリン スマホケース Iphone8, 北緯28度24分 西経 80度36分, 三ヶ日みかん ジュース 瓶, 楽天証券 デイトレ ツール, Dyson Pure Hot + Cool Hp00isn, Xex 東京 いちごビュッフェ, 鶴見 治安 大阪, ジャエル 山 雅 インスタ, 日本生命 高度 異 形成,
ソフトバンク 決算資料 フォント, ヨドバシ オーブンレンジ シャープ, ポムポムプリン スマホケース Iphone8, 北緯28度24分 西経 80度36分, 三ヶ日みかん ジュース 瓶, 楽天証券 デイトレ ツール, Dyson Pure Hot + Cool Hp00isn, Xex 東京 いちごビュッフェ, 鶴見 治安 大阪, ジャエル 山 雅 インスタ, 日本生命 高度 異 形成,