東日本大震災で私たちが得たいちばんの教訓も、世界一の防波堤や高い堤防の存在を安心安全の拠りどころにするのではなく、ひとりひとりが地域や暮らしの中で防災の意識を高め、まずは命を守ることを第一に、適切な判断で避難することだったはずです。 【画像】 「奇跡の村」があった 東日本大震災で津波による大きな被害を受けた三陸沿岸。そんな中で、死者数ゼロという “奇跡の村”があった。村の人々にその理由を聞いてみると、ある村の“重要人物”の姿が浮かび上がっ… 東日本大震災で示された従来の津波防災・減災の課題と新たな取り組み(一部修正) 出典:『東日本大震災 復興5年目の検証』関西大学社会安全学部編(2016)ミネルヴァ書房 (図中のl1=レベル1津波、l2=レベル2津波) 次の震災に備えるため. すべての画像・データについて無断転用・無断転載を禁じます。, 明暗分かれた「リコカツ」永山瑛太と「恋ぷに」綾野剛…アラフォー以降の俳優はコメディ力がカギ?, 「茨城一家殺傷事件」26歳男が逮捕 元捜査員が振り返る10年前の「猫虐待と通り魔事件」, 「紀州のドンファン」25歳の元妻、資金が尽き「パパ活」をしていた 家賃を踏み倒し“夜逃げ状態”に, 英国で「末席」を用意された天皇陛下を「最前列」に呼び寄せた人物とは? 天皇陛下が尊敬される理由, 木嶋佳苗、座間9人殺害事件の犯人が住んでいた間取りの不思議な共通点 事故物件芸人とイヤミス作家が語る、ヤバい部屋, やる気が出ないときはどうしたらいい? すぐに実践できる2つの「10秒マインドフルネス」, 非行少年たちはなぜケーキを3等分にできないのか “認知機能”に問題を抱えた子どもたちの実態, 満腹なのに食べ続けてしまうのは、心のサイン?――気づかないうちにはまる「エモーショナル・イーティング」とは, ABJマークは、この電子書店・電子書籍配信サービスが、著作権者からコンテンツ使用許諾を得た正規版配信サービスであることを示す登録商標(登録番号第6091713号)です。ABJマークを掲示しているサービスの一覧は. Copyright © SHINCHOSHA All Rights Reserved.すべての画像・データについて無断転用・無断転載を禁じます。, 太田名部地区の集落を守るように設置された全長155メートルの「太田名部防潮堤」(他の写真を見る), 東日本大震災で津波による大きな被害を受けた三陸沿岸。そんな中で、死者数ゼロという “奇跡の村”があった。村の人々にその理由を聞いてみると、ある村の“重要人物”の姿が浮かび上がってきた――。, 速報茨城一家殺傷・岡庭容疑者が10年前に起こした通り魔事件 被害少女の父が語った「無念」, 想定外の津波に襲われ、日ごとに凄惨な被害状況が報告される三陸沿岸の中で、その村の死傷者数はなんとゼロ(行方不明者は1名。2011年4月7日時点)。住宅への浸水被害も一切なかったという。驚くべき奇跡が起こった場所は岩手県の北部、漁業が盛んな人口約3千人の普代村だ。, 太平洋に注ぐ普代川を挟んで東に漁港を抱える太田名部地区、西に村役場のある普代地区がある。, 「助かった理由を村民100人に聞けば、100人全員が“堤防が守ってくれた”と言うに違いありません。村にある二つの大きな堤防が津波を防いで、人と家屋を守ってくれたと……。まだ専門家による分析は出ていませんが、少なくとも村民はそう思っています」, 村人を千年に一度の大津波から救った二つの堤防。その一つは太田名部地区の集落を守るように設置された全長155メートルの「太田名部防潮堤」で、高さが15・5メートル。そして、もう一つは普代川河口近くに位置する「普代水門」のこと。全長205メートルで、こちらも高さは15・5メートルに達する。, 「この防潮堤には陸閘(りっこう・車を通すための通路)が一つ空いてますが、地震後すぐにこれを手動で閉じた。海岸に面した太田名部漁港の船や施設は波にのまれてしまいましたが、津波は堤防を越えることはなく、集落は被害ゼロでした。一方の普代水門には、水門が四門と陸閘が二つあります。地震後、遠隔操作で全ての水門と陸閘一つは閉められたのですが、残りの陸閘が余震で閉まらない。慌てて消防団員が手動で復旧を試みているところに、川を遡った津波が押し寄せてきました。団員は高台に向かって危機一髪で難を逃れましたが、津波は陸閘ばかりか水門も越え、上流に流れこんだ。おそらく高さ20メートルはあったのでは? しかし一度ブロックされたせいか勢いが殺がれ、津波は水門から200メートル程度のところまで流れて止まり、そこから更に約1キロ先の村役場周辺は無傷で済んだのです」(同), 普代村の隣、人口約4千人の田野畑村には高さ8メートルの防潮堤が二つあったが、津波を抑えられず死者・行方不明者39名という惨状を招いてしまった。また約30キロ南に位置する岩手県宮古市田老町には、有名な「スーパー堤防」「万里の長城」の異名を取った総延長2・4キロ、高さ10メートルの防潮堤があったのだが、これも津波に乗り越えられて町は甚大な被害を被っている。, 条件が違うため他の堤防と単純比較はできないものの、「奇跡の村」を生んだ高さ15・5メートルの壁は、なぜ屹立しえたのだろうか? 太田名部防潮堤は昭和42年当時で5837万円の費用がかけられ、普代水門には昭和59年当時の金額で35億6千万円が投じられたという。現在の普代村の予算が22億円程度というから、国・県の助けがあったにしろ村を揺るがす一大事業だったに違いない。, 「実際、県からも当初は“田老町の堤防が10メートルなのに、普代村がそれより高い15メートルなのは如何なものか”という声もあったようです」, そう証言するのは、普代村の元収入役である太田喜一郎氏。そんな内外の反対を押し戻して、15・5メートルを強く主張したのが故和村幸得(わむらこうとく)氏だったという。昭和22年に初当選以来、連続10期、昭和62年までの長きにわたって普代村の村長を務めた人物だ。, 「一部の村民からも、“浜のことばかり面倒見ているからワカメ村長だ”なんて批判も受けていましたけどね。でも昭和8年の三陸大津波を経験している和村村長には、“村を壊滅させた明治、昭和の大津波の高さを考えると、10メートルでは次も根こそぎやられてしまう”という強い危機感があった。だから反対する村会議員、県などに足しげく通っては説得を続け、結果、村議会ではほぼ満場一致で防潮堤や水門の建設が決まりました。その当時の判断が、今回の大津波で多くの命を救ったわけです」(同), 和村元村長を戦慄させた昭和8年の津波では、太田名部の集落だけで255人中、99人が死亡。家屋58軒中、43軒が流失している。さらに遡って明治29年の津波では267人中、196名が亡くなり、家屋41軒がほぼ全滅した。この時、村を襲った波が、15メートル級の高さだったと伝えられている。「奇跡の村」が形作られていく背景には、重く苦々しい記憶と、最悪の事態を想定するリアリズムがあったのだ。もちろん鈴木善幸元首相と親密だったという和村元村長の政治的手腕も、堤防の実現に大いに寄与したことは、言うまでもない。, 「確かに現役村長の時、おじいちゃん(和村元村長)は役場の仕事以外にも、陳情等でしょっちゅう東京や盛岡に出かけていました。でも自宅では仕事に関する自慢話も苦労話も一切しない。ですから普代の人々の命を救った(水門や堤防を作った)のが、おじいちゃんだったという話も、知ったのは震災の後でした。とにかく、家では私や孫にも気を遣ってくれる人でした」, とその人柄を語る。和村元村長は昭和62年に村長を辞めて政界引退。以後は政治に関わることなく大好きな海釣りで余生を楽しみ、平成9年10月に89歳で亡くなった。村役場を去る際の挨拶は、, 「村民のためと確信を持って始めた仕事は、反対があっても説得してやり遂げてください。最後には理解してもらえる。これが私の置き土産の言葉です」, とはいえ普代村のケースは、他の町村にも安易に当てはめられるものではない。また今回の結果だけを見て、殊更に英雄視して持ち上げるのも軽薄だろう。, しかし「奇跡の村」には、いま全国民が心の底から望んでいるのに得られそうもない「強い信念に基づく指導力と実行力」が、15・5メートルの高さで残されていたのは確かなのだ。, 茨城一家殺傷・岡庭容疑者が10年前に起こした通り魔事件 被害少女の父が語った「無念」, 【写真20枚】人影の消えた街に“残された動物たちの姿” 【東日本大震災・あの日から10年】, 「誰にも話せませんでした。死んだ家族と“再会”したなんて……」被災地での「霊体験」。遺族たちはこうして絶望から救われた, 193~200ページを立ち読みしたら間違いなくレジに持っていく―― 「一夜のうちに犠牲者1700人」知られざる「ニオス湖の悲劇」とは──, デイリー新潮とは? | 広告掲載について | お問い合わせ | 著作権・リンクについてご購入について | 免責事項 | プライバシーポリシー | 運営:株式会社新潮社, Copyright © SHINCHOSHA All Rights Reserved. 避難失敗率 … そう証言するのは、普代村の元収入役である太田喜一郎氏。そんな内外の反対を押し戻して、15・5メートルを強く主張したのが故和村幸得(わむらこうとく)氏だったという。昭和22年に初当選以来、連続10期、昭和62年までの長きにわたって普代村の村長を務めた人物だ。 条件が違うため他の堤防と単純比較はできないものの、「奇跡の村」を生んだ高さ15・5メートルの壁は、なぜ屹立しえたのだろうか? 太田名部防潮堤は昭和42年当時で5837万円の費用がかけられ、普代水門には昭和59年当時の金額で35億6千万円が投じられたという。現在の普代村の予算が22億円程度というから、国・県の助けがあったにしろ村を揺るがす一大事業だったに違いない。 Ⅰ.東日本大震災による津波被害 1.東日本大震災による津波被害の概要 津波被害の概要 発生時刻:平成23年3月11日午後2時46分頃 震 源:太平洋三陸沖、牡鹿半島の東南東130km付近、深さ24km 規 模:マグニチュード9.0(最大震度7) 死者・1214人、行方不明者・219人(2017年時点)を出した宮城県・気仙沼市は、巨大防潮堤の建設を選んだ。 建設は気市内沿岸部65カ所で行われ、全長約40km、最大高さは14.7mに及ぶ。 東日本大震災(ひがしにほんだいしんさい、英: Great East Japan earthquake )は、2011年(平成23年)3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震による災害及びこれに伴う福島第一原子力発電所事故による災害である 。 大規模な地震災害であることから大震災と呼称される。 太田名部防潮堤は昭和42年当時で5837万円の費用がかけられ、普代水門には昭和59年当時の金額で35億6千万円が投じられたという。 現在の普代村の予算が22億円程度というから、国・県の助けがあったにしろ村を揺るがす一大事業だったに違いない。 太平洋に注ぐ普代川を挟んで東に漁港を抱える太田名部地区、西に村役場のある普代地区がある。 「助かった理由を村民100人に聞けば、100人全員が“堤防が守ってくれた”と言うに違いありません。 東日本大震災における津波避難 聞き取り調査から避難成否の要因を探る 日本災害情報学会 第13回研究発表大会2011年 予稿集 pp267-272 東洋大学社会学部 中村 功 日本大学文理学部 中森 広道 1. 東日本大震災で17.3mもの津波に襲われながらも、多くの住民が高台に通じる避難階段を駆け上って助かっている。結果として、明治三陸地震津波(15m・死者1,867人)、昭和三陸地震津波(10m・死者911人)よりも少ない犠牲者(181人)であった。 太田名部防潮堤は昭和42年当時で5837万円の費用がかけられ、普代水門には昭和59年当時の金額で35億6千万円が投じられたという。 現在の普代村の予算が22億円程度というから、国・県の助けがあったにしろ村を揺るがす一大事業だったに違いない。 「確かに現役村長の時、おじいちゃん(和村元村長)は役場の仕事以外にも、陳情等でしょっちゅう東京や盛岡に出かけていました。でも自宅では仕事に関する自慢話も苦労話も一切しない。ですから普代の人々の命を救った(水門や堤防を作った)のが、おじいちゃんだったという話も、知ったのは震災の後でした。とにかく、家では私や孫にも気を遣ってくれる人でした」 しかし「奇跡の村」には、いま全国民が心の底から望んでいるのに得られそうもない「強い信念に基づく指導力と実行力」が、15・5メートルの高さで残されていたのは確かなのだ。 2012年11月に静岡県沼津市で、東北大学の今村文彦教授による講演会が行われました。nhk の「東日本大震災アーカイブス」から2つの証言と1つのニュースを視聴しながら、あらかじめ避難を具体的に想定して計画することの重要性が語られました。 東日本大震災で石巻市大川小は児童・教職員計84人が津波の犠牲となったが、周辺ではかろうじて助かった地域住民もいる。 当時大川中1年だった男性(20)は大川小の裏山に避難する途中で大津波にのまれながら、奇跡的に一命を取り留めた。 災害の実態を伝え、復興支援と防災をめざして 2011年3月11日の「東日本大震災」で被災した人々の証言を中心に NHKが持つ震災にかかわる映像を公開し「あの時、何が起こり、人々はどう行動したのか」「復興支援と明日の防災のために何ができるか」をともに考えていくサイトです。 太田名部防潮堤は昭和42年当時で5837万円の費用がかけられ、普代水門には昭和59年当時の金額で35億6千万円が投じられたという。 現在の普代村の予算が22億円程度というから、国・県の助けがあったにしろ村を揺るがす一大事業だったに違いない。 2021年3月7日 掲載, 「小室圭さん騒動」が悠仁さまに与える悪影響 「言い間違えをした紀子さまを面罵なさった」, 【写真20枚】人影の消えた街に“残された動物たちの姿” 【東日本大震災・あの日から10年】, 「誰にも話せませんでした。死んだ家族と“再会”したなんて……」被災地での「霊体験」。遺族たちはこうして絶望から救われた, 193~200ページを立ち読みしたら間違いなくレジに持っていく―― 「一夜のうちに犠牲者1700人」知られざる「ニオス湖の悲劇」とは──. 2011年3月11日に発生した東日本大震災から6年が経過…。ジモコロ編集長の柿次郎が岩手県宮古市の田老地区を訪れ、学ぶ防災ガイド・小幡実さんに話を聞きました。世界一の防潮堤を作り、万全の準備をしていたにも関わらず、ひとつの判断ミスで181人の死者・行方不明者が… とはいえ普代村のケースは、他の町村にも安易に当てはめられるものではない。また今回の結果だけを見て、殊更に英雄視して持ち上げるのも軽薄だろう。 「一部の村民からも、“浜のことばかり面倒見ているからワカメ村長だ”なんて批判も受けていましたけどね。でも昭和8年の三陸大津波を経験している和村村長には、“村を壊滅させた明治、昭和の大津波の高さを考えると、10メートルでは次も根こそぎやられてしまう”という強い危機感があった。だから反対する村会議員、県などに足しげく通っては説得を続け、結果、村議会ではほぼ満場一致で防潮堤や水門の建設が決まりました。その当時の判断が、今回の大津波で多くの命を救ったわけです」(同), 和村元村長を戦慄させた昭和8年の津波では、太田名部の集落だけで255人中、99人が死亡。家屋58軒中、43軒が流失している。さらに遡って明治29年の津波では267人中、196名が亡くなり、家屋41軒がほぼ全滅した。この時、村を襲った波が、15メートル級の高さだったと伝えられている。「奇跡の村」が形作られていく背景には、重く苦々しい記憶と、最悪の事態を想定するリアリズムがあったのだ。もちろん鈴木善幸元首相と親密だったという和村元村長の政治的手腕も、堤防の実現に大いに寄与したことは、言うまでもない。 太田名部防潮堤は昭和42年当時で5837万円の費用がかけられ、普代水門には昭和59年当時の金額で35億6千万円が投じられたという。 現在の普代村の予算が22億円程度というから、国・県の … 元村長の息子の嫁、つまり義理の娘にあたる和村淑子さんは、 「村民のためと確信を持って始めた仕事は、反対があっても説得してやり遂げてください。最後には理解してもらえる。これが私の置き土産の言葉です」 東日本大震災 の ... 3月13日の夜に家にたどり着いた。しかし堤防が破壊されて車では大川小に近寄ることができず、14日の朝に船で渡り、ようやく遺体に対面した。 ... 「僕は、非常用の食べ物とか、逃げ道とかを用意していたら助かったのかなと思いました 現在JavaScriptが無効になっています。Yahoo!ニュースのすべての機能を利用するためには、JavaScriptの設定を有効にしてください。, 普代村の隣、人口約4千人の田野畑村には高さ8メートルの防潮堤が二つあったが、津波を抑えられず死者・行方不明者39名という惨状を招いてしまった。また約30キロ南に位置する岩手県宮古市田老町には、有名な「スーパー堤防」「万里の長城」の異名を取った総延長2・4キロ、高さ10メートルの防潮堤があったのだが、これも津波に乗り越えられて町は甚大な被害を被っている。 東日本大震災により、19 都道府県の水道施設に被害があり、ピーク時に約230 万戸で断水が発生しま した。本震災の特徴としては、本震と余震による水道施設の被害が広い範囲に及び、応急復旧活動に支障 「実際、県からも当初は“田老町の堤防が10メートルなのに、普代村がそれより高い15メートルなのは如何なものか”という声もあったようです」 とその人柄を語る。和村元村長は昭和62年に村長を辞めて政界引退。以後は政治に関わることなく大好きな海釣りで余生を楽しみ、平成9年10月に89歳で亡くなった。村役場を去る際の挨拶は、 2011年の東日本大震災と大津波は、青森県から千葉県までの太平洋沿岸を中心に甚大な被害をもたらした。死者・行方不明者は2万人近くに上る。日本国内で起きた自然災害で死者・行方不明者が1万人を超えたのは戦後初めてのことであった。 太田名部防潮堤は昭和42年当時で5837万円の費用がかけられ、普代水門には昭和59年当時の金額で35億6千万円が投じられたという。 現在の普代村の予算が22億円程度というから、国・県の助けがあったにしろ村を揺るがす一大事業だったに違いない。 東日本大震災を踏まえた津波防災対策の基本的な考え方(pdf形式); 地域の状況に応じた海岸堤防の高さ等の見直し(pdf形式); 復旧・復興事業の進捗状況(pdf形式) (参考)岩手県、宮城県、福島県の海岸堤防の高さ(pdf形式) 地震・津波 2011年東日本大震災の地震と津波の体験談。 ものすごい揺れで、このまま車ごと倒されてしまうのではないかと思いました。 Y様邸の建っていた宮城県岩沼市は、東日本大震災の津波被害が大きかった地域の一つでした。 1級建築士松井秀夫の ブログで言うDay! 東日本大震災津波で高さ15mの堤防は被害無しで高さが10mでは壊滅的被害になる事を検証する東日本大震災並みの大… 図2