しかし、2ndステージに入ると守備が破綻するなど低迷し、レシャックは2ndステージ第8節をもって不振の責任を取って辞任した。後任監督にはコーチだったゲルト・エンゲルスが昇格した。, 後半途中からFW吉田に替えてFWアンデルソン(背番号29)が出場。DFのレギュラーメンバー・薩川了洋(背番号3)は累積警告のため出場停止。, 1998年10月29日、記者発表前にマスコミから出し抜かれる形でマリノスとフリューゲルスの合併が発覚。出資会社の一つであった佐藤工業が本業の経営不振のためクラブ運営からの撤退を表明し、もう一つの出資会社のANAも赤字に陥っており、単独でクラブを支える余力がなかったことが原因であった。その為、マリノスの親会社日産自動車との協議の結果、両クラブは合併の上、実質的には主導権を持つマリノスにフリューゲルスが吸収合併されることになり、クラブは事実上消滅することになった。そして、その日に開かれたJリーグの臨時理事会で、両クラブの合併が正式に承認された。, 合併発表後で初の試合となった10月31日のセレッソ戦で試合後にサポーター各団体が合同でスタジアム前の広場に座り込み、合併撤回を求めてクラブフロントとの話し合いを要求した。全選手も街頭での活動に加わった合併反対署名運動等は全国で起こり、62万を超える署名が集まった。11月7日のホーム最終戦(三ツ沢)では試合後のセレモニーでエンゲルス監督がクラブの存続と救済を訴えるアピールを日本語で行い、フリューゲルスファンとしても知られていた川平慈英が存続支援を明言するなど、マスメディアでも連日社会問題として取り上げられた。12月2日、両クラブの合併が調印された。, そんな合併消滅劇の中、第78回天皇杯が開幕し、フリューゲルスは調印式後の12月13日に初戦を迎えた。同大会においては出場機会に恵まれず翌年の所属先が決まっていなかった選手たちを出場させて他クラブへのアピールの場にしようとも考えられていたが、当時ベンチ入りの機会すら少なかった桜井孝司らの「強いフリューゲルスを見せよう」という一言でクラブがさらに一丸となった。準々決勝ジュビロ、準決勝アントラーズ、1999年1月1日決勝エスパルスを破って優勝した。, 1999年2月1日、マリノスと正式合併して消滅[3]。マリノスはチーム名をフリューゲルス由来の「F」を加えた「F・マリノス」へと改称した。練習場はフリューゲルスの東戸塚トレーニングセンターを引き継いで「戸塚トレーニングセンター」とし、2007年のマリノスタウン完成まで使用した。, 一方、フリューゲルス存続を願うサポーターの一部はそれが困難になった現実に対応すべく、代替案として新クラブ結成に動き、1999年1月、「株式会社横浜フリエスポーツクラブ」[4] を運営会社として横浜FCが設立され、日本フットボールリーグ(JFL)への参加が特例として認められた。横浜FCは1999年に設立されていた「フリューゲルス再建基金」からも2500万円の融資を受けてチームを運営し、JFLで2年連続優勝した2000年のシーズン終了後には翌2001年からのJリーグ(J2)参加が認められたが、その際にフリューゲルスとは別の存在であると明確にしたため、元フリューゲルスサポーターの中には横浜FCから離反する動きも見られた。以後、横浜FCはフリューゲルスとは異なる、新しいクラブとしての歴史を重ねて、クラブの歴代成績にもフリューゲルスの記録は加算されない事になった。, また、「フリューゲルス再建基金」は2009年8月29日に拠出者総会を行い、2000万円分を横浜FCの観戦チケットとして返済を受け、残る3800万円分は横浜市が進めていたニッパツ三ツ沢球技場の観客席の増設(約2200席分)へ寄付する事になり、それに合わせて同球技場の一般客メインゲート脇の柱に再建基金についての銘板が設置された[5]。, 「フリューゲルス」の名称を含む諸権利は現在も横浜マリノス株式会社が保有している。2004年2月、マスコットの「とび丸」をはじめとしたフリューゲルス関連グッズが日本サッカー協会ビル(JFAハウス)内の「日本サッカーミュージアム」に寄贈された。, フリューゲルス(全日空スポーツ)最大の出資者で、合併を主導したANAは、合併後のF・マリノスも運営した「横浜マリノス株式会社」に30%資本参加したが、主要株主は引き続き、70%の株式を所有する大手自動車メーカーの日産自動車だった上、ANAは2002年2月には全株式を日産に売却した。2011年にはユニフォームでの社名掲示位置が背中から袖に変更、さらに2013年を以てユニフォームスポンサーから撤退した。国際線航空便のエコノミークラス割引運賃制度として使われていた「とび丸航空券」は1999年2月から「GET」に改変され、現在は「エコ割」となっている。, フリューゲルスの共同出資者であった佐藤工業は、2002年3月に会社更生法の適用を申請し、2009年9月にその手続きが完了した。フリューゲルス解散後もサッカーに対する同社の積極的な姿勢は残り[6]、2011年1月21日には日本サッカー協会と協定書を交わし、同協会が進める「JFAこころのプロジェクト」(ユメセン)に協賛企業としての支援を開始した[7]。同社の本社がある富山県では2007年11月に設立されたカターレが2009年からJ2に参入し、佐藤工業は出資はしなかったものの、カターレの主催試合ではベンチ広告のスポンサーとなっている。, チームの合併発表時にフリューゲルスへ在籍していた23選手[8] は、関係者の尽力や天皇杯の活躍もあって、翌年も大久保貴広(Honda FC、JFL)以外は全員Jリーグクラブ(J2を含む)との契約を果たした[9]。フリューゲルスを吸収したF・マリノスには永井秀樹・佐藤一樹・三浦淳宏・波戸康広・吉田孝行など、天皇杯決勝での先発4人を含む5選手が加入。合併2年目の2000年には三浦らの活躍で第1ステージ優勝も果たした。波戸は2004年シーズン途中に移籍した後、2010年にF・マリノスへ復帰し、2011年限りで現役を退いた。F・マリノスにスライドした旧フリューゲルスユースの選手[10] で、坂田大輔と田中隼磨はその後のF・マリノスで中心選手となり、共に日本代表まで選出された。, 生え抜きの中心選手として現場・サポーター不在の合併を厳しく批判した山口素弘と、日本代表のGKをめぐってマリノスの川口能活と激しい競争をしていた楢崎正剛はマリノスには加わらず[11]、1998 FIFAワールドカップ日本代表にも選ばれていたこの2人はグランパスへ移った。楢崎はスタメン表の前所属クラブ欄からフリューゲルスの名前が消えることを嫌い、その後2018年に引退するまで移籍することはなかった[12][13]。, 同大会のブラジル代表では大会初ゴールを挙げるなどで準優勝となったセザール・サンパイオはブラジルに帰国してパルメイラス復帰、選手会長として山口と共に合併反対の急先鋒だった前田浩二はジュビロ、原田武男はセレッソ、天皇杯決勝は出場停止だった薩川了洋はレイソル、天皇杯決勝でゴールを挙げた久保山由清は決勝の相手だったエスパルス、ユース出身の井上雄幾は天皇杯優勝の実績でジェフ新監督に就任したエンゲルスとともにジェフへ移籍と、ベテラン・中堅の主力選手はF・マリノス以外へと分散した。また、フリューゲルスのフロントからサンガの統括部長に招かれた木村文治はフリューゲルスの若手6選手を京都に入団させた。, 合併発表後の新チーム移籍が比較的順調に進んだ事もあり、急ごしらえで発足した横浜FCには直接フリューゲルスから移籍した選手はいなかったが、1993年のJリーグ開幕時にフリューゲルスで活躍していた高田昌明や渡邉一平などが加入した。その後も佐藤一樹などの元フリューゲルス選手が入団したが、2005年8月にはアルビレックスに在籍していた山口が加入し、山口は2006年に主将として横浜FCをJ1昇格へ導いた(その後2007年限りで引退)。なお、山口はF・マリノス使用時には近づかなかった旧東戸塚(LEOC)トレーニングセンターを横浜FCが引き継いだ際にはフリューゲルス時代と同じ場所に自分のロッカーを置き[14]、自らの引退試合でも「フリューゲルス」の名前を使おうとしたが、上記の通りに名称の権利を持つF・マリノス(横浜マリノス株式会社)からの許可が下りず、山口は引退試合の開催自体を取りやめた。なお、山口は2012年から2014年まで横浜FCの監督を務めた。, フリューゲルスのトップチーム在籍経験者のうち、2019年に現役選手として登録されているのは遠藤保仁(ジュビロ)のみである[13]。, 1995年を頂点にした観客数の急減、Jリーグ各クラブの赤字額の増大に起因する「Jリーグの危機」は、1997年のJリーグ準会員・鳥栖フューチャーズの存続問題[15] に続くこのマリノス・フリューゲルス合併で誰の目にも明白となった。日本代表の周囲はフランスW杯出場で盛り上がっていたが、Jリーグはヴェルディが読売新聞社撤退による大幅な経営縮小やベルマーレもフジタ撤退による経営危機が重なり、また前年のアジア通貨危機に端を発した不況の影響に苦しんでいた。, Jリーグチェアマンとして事態の収拾に当たった川淵三郎は、「自分に話が来た時は両チームの合併は決定事項で覆せなかった」という言い訳する一方、Jリーグの責任者として合併を認めた事はサポーター達や前田選手会長などから当然のごとく「サポーター無視」として多くの批判を浴び、後に「これが一番辛かった」と述懐した。この事態は親会社に依存した各クラブの経営体質に問題があると判断した川淵は経営監視体制の強化に乗り出し、各クラブの財務状況の公開を徐々に進めた。また、翌年から導入したJリーグ2部制では、より経営環境が厳しくなるJ2の各クラブに一層の地域密着を求めた。, なお、翌1999年よりJリーグが2部制に移行する関係で、1997年・1998年の成績を元に下位5クラブによるJ1参入決定戦(トーナメントによる入れ替え戦)が行われることになったが、フリューゲルスの消滅により入れ替え戦の参加が下位4クラブに減少し、トーナメントも一部変更となった。, 前述したように、フリューゲルスはJリーグ発足当初は九州地方をホームタウンとするJクラブがなかったこと、またANAがクラブのメインスポンサーとなっていることから、横浜市と沖縄県を含む九州各県のダブルホームタウンを実施する予定にし、ホームゲームの半数程度を九州で行う方針にしていた。これは「ANAが乗り入れている空港のある地域全てを本拠地にする」計画を持っていたことも絡んでいる。ところが、そうしてしまうと各県につき1試合ずつしか割り当てられず、興業的にも不利であることから一部フリューゲルスの主催ゲーム開催を拒絶した県もあったため、結局九州での準本拠地は長崎県、熊本県、鹿児島県の3県に絞った。, また、Jリーグではホームタウンを原則1チームにつき1市区町村となっている(現在は同一都道府県内の複数市区町村にまたぐ広域ホームタウンが認められている)とした関係もあり、正式なホームタウンは横浜市としながら、これら3県は「特別活動地域」というカテゴリーを設けてホームタウンとほぼ同じ権限を持ち、フリューゲルスの主催ゲーム(天皇杯は除く)を優先的に開催することができた。このため、Jリーグ発足最初の4年(1992-95)はフリューゲルス以外のチームがこの3県で主管試合をすることはなかった。, これに伴って、長崎、水前寺、鴨池の各競技場も照明設備の新設、スタンドの座席改築他のJリーグ開催基準を充足する工事が施された。, Jリーグ発足時、同じ横浜にホームを置くマリノスと同日に主催試合を行う事が珍しく無かったが、Jリーグが同一会場での複数試合開催をピッチコンディションや観客の入れ替え等の点で認めていない為、マリノスが三ツ沢(球)、フリューゲルスが下記の九州3県か、東京・国立競技場などの他会場を使うケースがあった。, 逆に福岡県ではフリューゲルスの主催試合は行われず、マリノスが1993年・1994年に各2試合ずつ東平尾公園博多の森陸上競技場で主催試合を行った。この他、同競技場ではヴェルディやレッズなども主催試合を開催し、ヴェルディは福岡ブルックス(現在のアビスパ)がJリーグ準会員となった1995年にも東平尾公園博多の森球技場で1試合を主催した。いずれの試合でもフリューゲルスはアウェーチームとして登場しなかった。, 各年度の開催試合数は横浜フリューゲルスの年度別成績一覧#年度別入場者数を参照のこと。, 上記の関係もあり、1カ月以上も三ツ沢(球)でのゲームが組まれず、事実上の長期ロードに出たことがあった。特に1993年の11月から12月にかけての試合に至っては三ツ沢(球)のフリューゲルス主催試合は1試合しか行われなかった。また7月から9月始めにかけても熊本と国立で1試合ずつ試合をしており、このステージのホームゲーム9試合で三ツ沢(球)で試合をしたのはわずか3分の1に当たる3試合だけだった。, 1994年、三ツ沢(球)の芝生の張替え工事を行った関係で第1ステージ(サントリーシリーズ)の後半・5月14日以後の主催試合も鹿児島、長崎、国立、富山と転戦し(熊本・水前寺は当時改修工事中だったため第1ステージは行わず)、ワールドカップを挟んで8月20日に行ったグランパスとの対戦でようやく3カ月ぶり(改修前最後の試合は5月7日のガンバ大阪戦)に三ツ沢(球)に帰ってきたという事例もある。, このため九州での試合では横浜Fのモチベーションやパフォーマンスは低くなってしまい、その結果、フリューゲルスの九州でのホームゲームの結果はリーグ戦・カップ戦合計で5勝22敗、しかも1994年7月23日のヤマザキナビスコカップ1回戦(対セレッソ、鹿児島)に1-0で勝利したのを最後に14連敗という成績であった。またスタジアム別では鹿児島で3勝7敗、長崎で2勝8敗、熊本は7戦全敗であった。, 公式なホームタウンではないが、佐藤工業の創業の地が富山県にあるため、1994年から数年間は富山県総合運動公園陸上競技場でも毎年1試合程度の主催試合を開催していた。, 1996年、アビスパがJリーグに参入したのに伴って横浜Fの特別活動地域のカテゴリーは消滅し、各クラブが平等に主催できるようになったが、サンガ等他クラブの主催試合も行われていた鹿児島県については、その後もフリューゲルスの主催ゲームを年1-2試合程度開催した。, 1st(主にホーム用)は白をベースに、2nd(主にアウェー用)は青ベースに製作された。, 会社更生法手続き完了時には、当時の同社社長が川淵や元フリューゲルス選手からの激励について謝意を述べ、今後もサッカーに関わる事を述べている。出典:夕刊フジ2009年9月24日付記事、, Jリーグクラブ退団後の進路では、そのまま現役引退をするか、アマチュアのJFLや地域リーグでプレーする選手が多く含まれるのが通例である。, 楢崎は2010年12月にJリーグの最優秀選手賞を受賞したが、合併から12年を経たこの時点でも「横浜フリューゲルスへの思いも強い。『あんなことは2度おきてはダメなんです』と今でも話す」と紹介されている。 出典:zakzak 2010年12月7日付「, 山口へのインタビューより。出典:ベースボールマガジン社『まるごとJリーグ完全版 栄光の記憶15年』、2007, https://data.j-league.or.jp/SFRT01/?competitionSectionIdLabel=%E7%AC%AC%EF%BC%93%EF%BC%90%E7%AF%80&competitionIdLabel=%EF%BC%AA%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%B0&yearIdLabel=1996%E5%B9%B4&yearId=1996&competitionId=36&competitionSectionId=30&search=search, https://data.j-league.or.jp/SFRT01/?competitionSectionIdLabel=%E7%AC%AC%EF%BC%91%EF%BC%97%E7%AF%80&competitionIdLabel=%EF%BC%AA%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%B0+%EF%BC%91%EF%BD%93%EF%BD%94&yearIdLabel=1997%E5%B9%B4&yearId=1997&competitionId=52&competitionSectionId=17&search=search, 【名古屋】気になる楢崎の去就動向。「前所属・横浜フリューゲルス」が残留への後押しになるか, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=横浜フリューゲルス&oldid=83407720, 当時、ホームゲーム等で試合を盛り上げていたフリューゲルスのマスコットキャラクター。, 全日空横浜SC・横浜フリューゲルスのOBによる事実上のセカンドチーム「東京フリエSC」(.