交通・旅行ライター。神田外語学院アジア/ヨーロッパ言語科中国語コース、神田外語� 本の長さ. 大学 図書館所蔵 ... 懐かしの昭和…。でもいま、平成生まれの娘と一緒に妄想列車に乗って胸キュンするあたし。オバちゃんになるのは恐怖だったけど、歳とるのも悪くないわ!40歳超え元客室乗務員カータンによるストレスリリース漫画。 目次. !男塾』の登場人物の江田島平八に似ているということで、PR向けに江田島平八のコスプレを行ったことがある。これについて、主に国民党議員から「日本びいきだ」、「植民地支配肯定」などとの批判が起きた。, 熱心なキリスト教徒で、総統退任後は「山地に入りキリスト教の布教をしたい」と語っていたが、さらなる民主化のため「台湾団結同盟」を自ら主導して創立した。また、『旧約聖書』の「出エジプト記」についてよく話していた。[75], 台湾の同世代に顕著なことだが、かつて台湾政府の要職を経験していながら一番得意とされる言語は日本語といわれる。それについで台湾語、英語となり、一番苦手なのは北京語で、非常に台湾訛りが強い。北京語で質問されると、それを日本語に訳して意味を理解し、日本語で回答を考えてから北京語に訳すという、日本人と同様のプロセスで返答していたことから、外省人の記者たちからは「李登輝の北京語は、どうしてあんなにめちゃくちゃなのか」と言われていた[29]。この不得手さを逆手にとって、宋美齢の側近に「宋美齢の北京語は浙江訛りが強いため、今後用件は文書で送付するように」と要請、発言を記録化し宋美齢の権力を失墜させた。, 上記のように、日本文学を多く読み、岩波文庫の蔵書数を誇ったり、日本のオピニオン雑誌『中央公論』『文藝春秋』を愛読するなど、情報処理や思考の面で多く日本語が介在したとされる。そのため、記者会見など公の場でも特定の単語を日本で使用される呼称をそのまま現地語で発音することがあり、台湾では「波斯(ペルシア)湾戦争」と表記される湾岸戦争を「湾岸戦争」のまま中国語読みしていた例も確認されている[76]。文恵夫人を日本語読みで「フミエ」と呼ぶこともある。, なお、娘たちの学習は自由意志に委ねており、2人とも本格的な日本語教育を受けず英米に進学した[29]。, 康定級フリゲートの購入や党の資金を使った投資プロジェクトからのキックバックなど、金銭をめぐる疑惑が少なからずあった[77]。自身の影響力を維持するため党内に金をばら撒いたり、選挙で優位に立つため暴力団を頼ったりした事もあったとされる[78]。これらの裏金は国外への工作にも使用され、国交維持を目的として南アフリカ共和国に巨額な資金提供が行われたほか、日本の橋本龍太郎、アメリカのカート・キャンベルやポール・ウォルフォウィッツなどがロビー活動の対象として挙げられている[77]。, また本省人アイデンティティに傾倒し他のエスニックグループから反感を買っていた[79]。, 2000年の総統選挙では、ともに改革に取り組み党内で辣腕を振るった宋楚瑜を排し、与し易い連戦の擁立に固執した。宋楚瑜は無所属で立候補して連戦と票を食い合い、民進党の陳水扁を利することとなった。結果政権交代となり、後に登輝自身も党主席辞任を余儀なくされた。その後の登輝は国民党批判を公然と行い、その変節ぶりと政治関与の継続は批判の的となった[46][79]。, 親日の政治家・言論人として知られる。産経新聞連載「李登輝秘録」の取材で、同紙記者が台北郊外の李登輝宅を訪れたとき、李登輝は右手を首まで水平に持ち上げ、「僕はここまで、22歳まで日本人だったんだ」と発言している[80]。 日本の親台派からは、その親日ぶりが高く評価されている。先述のように、日本の漫画の登場人物のコスプレをするなど、日本のエンターテインメントにも関心を寄せている。, 台湾における教育改革にも心を砕き、「(国民党政権の)反日教育をやめさせ、台湾の子供たちに正しく日本と日本人を理解させなければ」と考え、1996年には新たな中学の教科書「認識台湾」を作らせた。それ以前の教育では大中華主義の歴史観で台湾の歴史や地理は教えず、また日本統治時代は一律に否定していたが、李登輝は戦前に普及した教育の制度やインフラ建設など日本の功績を認める記述を取り入れ、その結果、若い世代が日本に親しみを感じる傾向が強まったという[80]。, 靖国神社問題では2007年5月末から6月初旬にかけて訪日した際、日本外国特派員協会で開かれた記者会見で「“靖国問題”とは中国とコリアがつくったおとぎ話」と発言した。, 台湾も領有権を主張する尖閣諸島を「沖縄県に属する日本固有の領土」であるとし[81]、2008年9月24日には訪問先の沖縄で再び日本領土だと発言した[82]。また、「おネエちゃんがきれいだからといって、私の妻だと言う人間がどこにいるのだ」「尖閣諸島周辺はよい漁場で、沖縄の漁民はかつて、同漁場でとった魚を台北に売りにきた。沖縄県当局は、日本が統治していた台湾の台北州に尖閣諸島周辺の管理を委託していただけ」「第二次世界大戦後、沖縄の行政権はアメリカが掌握し、その後、日本に返還された」「日本の自衛隊が、この海域の防衛に責任を持つことになったが、台湾の漁民は(尖閣諸島周辺で)操業することが習慣になっていたことから問題が発生した」「1972年になってから『尖閣諸島は中華民国領』と主張したことで、問題が発生した」「台湾が他人の場所に行って、魚がとれただけでも上出来だった。それを自分の『戸籍』に入れようとは、あまりにも幼稚」と、台湾が尖閣諸島の領有権を主張していることを皮肉ったという。李登輝の発言に対して中国のインターネットユーザーは、李登輝の発言の記事を掲載したサイト「環球網」にて、李登輝を「日本の犬」「売国奴」「まだ死んでいないのか」「特殊工作員を送り、一族皆殺しにして、子孫を根絶やしにしろ」などといった、李登輝に対する罵詈雑言が飛び交っているという[83]。「文芸春秋」のインタビューで李登輝は「前にも言ったように、尖閣諸島は日本の領土だ。日本は道理に合わないことを言う中国に譲歩する必要はない」と語ったことについて、李登輝の発言に対して台湾当局関係者が即座に反駁し、台湾総統府の羅智強(中国語版)報道官は「李登輝氏の尖閣諸島は日本領という発言は歴史事実に反し、しかも国家主権を侵害している」、国民党の邱毅は「李登輝氏の政権はとっくの昔に終わったのだ。いつまでも発言するな!」と強く批判した。, 2010年に10月に訪台した安倍晋三の訪問を受け、当時在野にあった安倍に対し「もう一度、首相になりなさい。いま、あなたのほかにリーダーはいない」と助言したとされる[84]。, 2013年4月10日に日本が調印した日台漁業協定について、「過去に日本は台湾に対して行き過ぎていたが、東日本大震災後に台湾は多くのお金を寄付したので、日本側は後に反省した。過去に日本はずっと台湾と漁業協議を署名しようとしなかったが、現在は作法を改善した。例えば、ワールド・ベースボール・クラシックの時に台湾代表チームは日本に試合に行ったが、日本の民衆も台湾チームのために応援した」[85] と語った。, 2014年、小学館発行の『サピオ』2014年2月号で、「中国という国は南京大虐殺のようなホラ話を世界に広め」、「韓国や中国は、自国の宣伝工作の一環として捏造した「歴史」を利用する。その最たる例が『慰安婦』だ」と主張[86]。2015年、『Voice』で「台湾の慰安婦の問題は決着済み」述べ、総統府スポークスマン陳以信(中国語版)に「無知ではなく冷血」、「もし李登輝が本当に慰安婦問題がすでに決着済であると考えているならば、自ら映画館に行って映画『蘆葦の歌(中国語版)』を見ていただきたい」と痛烈に批判された[87]。, 2015年8月には『Voice』2015年9月号へ寄稿した中で「70年前まで日本と台湾は『同じ国』だった…台湾が日本と戦った(抗日)という事実もない」、「当時われわれ兄弟は、紛れもなく『日本人』として、祖国のために戦った」と発言し[88](日本統治時代の台湾を指す)、国民党の憤激を買った。その一方で、同年9月13日に台湾の学生団体主催の講演会に出席した時は、日本統治時代を「(当時の)日本は外来政権」、「(台湾の人が)日本人の奴隷になったのは悲しい」などと語っている[89][90]。, 西田幾多郎の哲学に心酔しており、政治家として出処進退が問われる場面で西田哲学を拠り所にしていたと語っている。また、新渡戸稲造の『武士道』や夏目漱石の「則天去私」の思想にも大きな影響を受けていた[91]。, 2020年7月に登輝の死を報じた中国共産党系のタブロイド紙環球時報は、「日本は台湾の経済発展の基礎を築くのに多大な貢献をしたが、今では私の日本の友人の多くが、台湾に貢献した日本人のことを知らないのではないかと心配している」などの一連の発言に触れて、「日本人自身でさえ信じられないほどの、上記のような馬鹿げた、卑劣な、そしてどこか哀れな言葉は、ゴキブリが暖を取るために抱き合っているに過ぎない」などと誹謗した[92]。, 「一つの中国」を国是とする中華人民共和国(中国共産党)は、李登輝を「台湾独立勢力の象徴的人物」として危険視し、李登輝の訪日希望には査証を発給しないよう要求していた。ただし、李登輝は政界入り直後に日本の政治家と会談し、副総統時代にも査証発給の問題なしに訪日を実現した。2000年の総統退任以は、計9回にわたり来日。, 2009年12月18日に、台北市内で、訪台中の日本の高校生約100人を相手に『日本と台湾の歴史と今後の関係』をテーマに講演した。李は講演で「あなたたちの偉大な祖先の功績を知り、誇りに思ってほしい」「公に尽くし、忠誠を尽くした偉大な祖先が作り上げてきた『日本精神』を学び、あなたたちも大切にしてほしい」と述べた[100]。, 2010年3月24日、「第7回日台文化交流 青少年スカラシップ」の日本側研修団の表敬訪問を受けた。李は学生に対し「日本人は教育と政治の影響で否定的な価値観を持たされ、心理的な鎖国に陥っている。日本の気高い形而上学的・道徳的価値観と品格を大切にし、自らの歴史を肯定しなさい」と述べた。また、日本の台湾統治にも触れ「日本は植民地の形ではあったが台湾近代化に大きな貢献をした」と述べた[101]。, 李登輝元総統の死去を受けて、日本では、2020年8月3日に東京都港区白金台の台北駐日経済文化代表処に弔問記帳台が設けられた[102]。なお、東京のほか、大阪の弁事処や那覇分処、横浜分処、札幌分処にも弔問記帳台が設置された。, 2020年8月9日、安倍晋三首相の意向にて弔問団の団長となった森喜朗らが追悼場が設置された迎賓館「台北賓館」を訪れ、弔意を表明。この台湾への弔問団は日本台湾交流協会と超党派議員連盟である日華議員懇談会が派遣。李登輝の死去後、海外から派遣された最初の弔問団となった[103][104]。, 孫文(理事長・総理) 1912-1925 / 張静江 1926 / 蔣介石 1926-1927 / 胡漢民 1935-1936 / 蔣介石(総裁) 1938-1975 / 蔣経国 1975-1988 / 李登輝 1988-2000 / 連戦 2000-2005 / 馬英九 2005-2007 / 呉伯雄 2007-2009 / 馬英九 2009-2014 / 朱立倫 2015-2016 / 洪秀柱 2016-2017 / 呉敦義 2017-2020 /